株式会社東京ドリームワークス

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雑感 イタリア紀行

株式会社東京ドリームワークス
代表取締役 塚田 真一郎

≪序章≫

サラリーマン生活に終止符を打って、家業の左官業を継承したのが15年前、小さいながら会社の代表になったのが5年前、通常4月、5月は年度末の流れで非常に忙しい時期である。しかし、今年平成20年は、昨年6月20日建築基準法改正に伴い確認申請が遅れ、私達の業界は「空白の6カ月」を経験するはめになった。6ヶ月間通常の受注量の3~4割減なのである。

躯体関係業者が平成19年12月末から、そして私達の左官業が今年平成20年3月ごろより、いまだかつてない経験をすることに なった。何処の業界の会合に行っても昨年の暮れ頃から、この話題でもちきりだった。「職人さんの雇用はどうする?最低20日は働いてもらいたい。会社の経費はどうなるだろう?政府のセイフティーネットは?」等々、本当に重苦しい状況が続いていた。いつもに増して胃の調子の悪い毎日が続いた。

しかし、人間とは不思議なものである。悩みぬいたあげく最後は「キレル」のである。かくある私もその1人であった。非常に不謹慎に思われるかもしれないが、人間所詮そんなものだと自分を肯定し、自分なりの理由付けをして、自分を解放してしまうのである。私の場合「運命は自分で作れるかわからないが、50年人生の約3分2を終え、残りの3分の1を生き抜く為のレール作り」である。清水の舞台から飛び降りたつもりでなけなしの貯金を降ろし格安チケットを購入し4泊6日の突貫イタリア旅行を実行することになった。

【ローマへ】

成田空港を飛び立ち日本海を超え北北東へ針路を取りウラジオストック上空を飛び高度約1万mシベリア上空を6、7時間延々と飛びモスクワの北部を経由しポーランド、オーストリアを越え所要時間12時間40分現地時間午後7時20分ローマ、フィウミチーノ空港に到着した。エコノミーでの機中は非常に過酷であったが、台風シーズンの南の国への渡航程大きな揺れもなく、スムーズなフライトではあった。

空港よりホテルへタクシーで向かう。ホテルの住所と地図を手で指して、無言で運転手に指示、理解したのかしないのか分からないまま車は空港を出発した。タクシーと言っても日本のタクシーとは違い1,000㏄か1,200㏄程度のワンボックスである。エコなのか?それとも道路が狭いからか、小型車なのか?景色が徐々に色鮮やかになり近代的な街並みになってきた。白系、赤系、青系の外装と夕暮れの空の色が非常に美しいコントラストをかもしだしていた。空気に匂いなど無いだろうが、非常に心地良い感じであった。

ホテルに到着し、フロントへ、予約票をフロントマンに見せる。

照合している様だが答えが返ってこない。首を振っている様にも見え、心配になり旅行会社の現地窓口へ携帯電話で連絡を取り日本語で、ことの次第を説明しフロントマンに代わり解決!現地窓口のイタリア人のネームでの予約だったらしい。アラブ系のベルマンが部屋へ荷物を運んでくれた。

夕食を取る為外出、ホテルの近くのレストンへ!言葉も分からないまま着席、メニューを出されタクシーの時と同じで無言の指差し指示。待つこと15分。

スパゲティー、ピザ、ワインなど出てきた。現地時間で夜の9時過ぎまだこれからの様である。日本の食事時間帯とは違うらしい。ホテルに帰りシャワーを浴びテレビをつける。BSで30チャンネル以上ある。イタリア語、英語、アラブ語、ドイツ語、ここはイタリアだがユーロ圏なのであると気付く。悲しきかな日本語はない。酒の力を借り眠りにつく。

・・・・・・  1日目終了  ・・・・・

≪二日目≫

ホテルの屋上にて、朝食、チーズ、生ハム、パン、サラダ、いろいろな種類がある。悪い癖で全てが美味そうに見え腹いっぱい食べた。廻りを見渡してみたが、欧米人はあまり食べないようである。クラッカーとサラダ少々、コーヒー程度のようだ。やはり体の事を考えているのだろう。メタボリックは日本だけではないのだろう。

【バチカン博物館】

バチカン博物館のチケットバチカン博物館のチケット

(法王と法王の為に働く人々の住居、現在総面積42,000㎡展示コース総延長7㎞)
受付でチケットを買いエスカレーターで松かさの中庭へ巡路指示の通り見学をする。

古代ギリシャ、ローマ時代の彫刻が集められているピオクレメインティーノ美術館に展示されているラオコーンは紀元前1世紀(ネロ帝時代)の写実主義の彫刻で16世紀にコロッセオの近くで発掘されてされ。ルネサンス特にミケランジェロに強く影響を与えた。

回廊の中にあるキアラモンティ博物館、ラピダリア絵画館、ボルゴの廊下、ラファエロの回廊を通り、ラファエロの間にラファエロとその弟子たちが1508年~1524年にかけて、制作したフレスコ画の作品を収蔵している部屋、元はユリウス2世が居住域として利用していた。

さらに回廊を通り、システィーナ礼拝堂へユリウス2世が1506年当時65歳のミケランジェロに依頼、助手の手際が気に入らず1人で8年の歳月をかけて完成させた。旧約聖書の創世記を主題にしたみごとなフレスコ画が描かれている。残念ながらシスティーナ礼拝堂は撮影禁止だった。システィーナ礼拝堂は典礼の場で、蝋燭のすすなどにより天井画、壁画の劣化が進んでいたが、1981年~1994年日本のテレビ局の支援により修復され製作当時の色彩に戻った。

【フォロ・ロマーノ、ローマ市役所】

フォロ・ロマーノは古代ローマの中心部紀元前6世紀には排水設備など整備されていた都市として機能していた。

【コロッセオ、パラティーノの丘】

コロッセオは紀元前70年前から100年かけ作られ5万人収容の円形競技場、観客席は身分や性別によって区分されていた。剣闘士(グラディエーター)同士や猛獣と人間による殺し合いが大観衆を前に行われた。

【サンタ・マリア・イン・コスメディアン教会】

映画『ローマの休日』で有名になった『真実の口』のある教会で6世紀にギリシャ難民のために作られた教会。

【ナヴォーナ広場、パンテオン】

パンテオンはギリシャ語で「よろずの神の神殿」紀元前27年アウグストゥスの娘アグリッパの命により建てられる。円径43mの巨大なドームの中央には採光用の天窓があり、1本の光線となって堂内に差し込む、降雨時の配水も考えられている。周囲の壁には、ラファエロやエマヌエレ2世の墓がある。

【トレヴィの泉、スペイン広場】

1730年クレメンス12世により作られる。ネプチューンの乗った馬車を2体のトリトンが手綱を操り天馬ペガサスが引くという構成で作られている。後ろ向きにコインを投げて来たので再度ローマを訪れることになるだろうか?スペイン広場にはかつてスペイン大使館が広場に面してあった為こう呼ばれる。137段のスペイン階段とトリエタ・ディ・モンティ教会とが見事にマッチした景観である。「ローマの休日」でオードリー・ヘップバーンがアイスクリームを片手にこの階段を降りてくる場面を思い出した。モノクロ映画の記憶でしかないが、実際には緑多く、花が咲きほこりもっと素晴らしかった。

・・・・・・  2日目終了  ・・・・・

≪三日目≫

昨日に引続き、ホテルの屋上のバイキングにて、欧米人を見習って軽めの食事を取り、市内散策開始。まずサンタンジェロ城へ、ホテルを出て最高裁判所の横を抜けテレベ川沿いを歩く。どうも人通りが少ない。本日は閉館、本日はメイデーだった。サンタンジェロ城は、2世紀にバリアヌス帝の霊廟として建てられ軍事的な要塞となり教皇の避難所としても使われていいた。

【サンピエトロ寺院】

世界最大のカトッリクの大聖堂4世紀のコンスタンティヌスの聖堂が前身となり16世紀にユリウス2世が再建を命じ、途中中段され1546年ミケランジェロが独自のデザインで建築を始め、工事は引継がれ1626年に完成した。チケットを購入し、世界最強のスイス人衛兵のいる回廊横を通りクーポラへのエレベーターに乗り中段フロアーへ、人一人が通れる薄暗い一方通行の階段を昇り、青いきといきのままクーポラ最上部の展望フロアーへ、視界が開け青空がまぶしい。ローマ市内が一望できる絶景である。

狭い下り坂の通路とエレベーターで、大聖堂内部へ、後陣でミサが開かれ開かれていたので参加する。言葉は分からないが、頭を下げ目を閉じていると心が何となく清らかになった様な気がしてくるのが不思議である。

私自身、日本で生まれ、仏教を身近に感じながら50年生きていて今回キリスト教カトリック(世界で21億人がキリスト教を信仰し、約その半数がカトリック信仰)の大本山であるサン・ピエトロ大聖堂を訪れ、ブラマンテ、ミケランジェロ、ジャコモ・デラ・ポルタ、カルロ・マデルノらのイタリア芸術の巨匠たちの手により設計管理され、120年の歳月と莫大な費用を投じた、大聖堂は「世界最大の規模と豪華さを誇る」と言われる通り筆舌に尽くしがたいすばらしさである。信仰の証だけで、これだけの建築物を創造することができるのか?日本史上、これだけの歳月、費用を注ぎ込んだ宗教建築は無い様に思う。「日本と仏教」を物差しに見比べてはいけないとつくづく思い、「目から鱗が落ちる」思いで、キリスト教カトリックに対する人々の信仰の深さにつくづく感嘆した。

・・・・・・  ホテルに戻り ローマフィウチミーノ空港へ  ・・・・・

≪最後に≫

ローマ市内から空港に向か中、「ローマは紀元前6世紀(日本の縄文時代)には都市しての機能を備えていた。ユーラシア大陸の地政学上、新しい国家の誕生、強国の侵略と時代の波に翻弄され、現在イタリア共和国、ローマとして世界唯数の観光地として栄えている。旅行前の私個人のイタリアに対するイメージは、政治不信、リラの暴落、万年不況など暗い印象しかなかったが、1999年よりユーロ圏となり3臆2千万人の規模の経済圏の一員となり、人、物の往来が活発化し、東ヨーロッパ系、アフリカ系の人々にも仕事が与えられアメリカ、フランス、スペイン、ドイツ、ポルトガル、北欧の人々が観光に訪れ、非常に活気に満ち溢れている。」中世の町並みを保存、改修して、古い町並みの中に近代の合理性を備えた都市機能を持ち、空が青く緑も多くロハスが定着している。日本が経済大国と言われたのが、今久しく感じる現在、そして世界の中の日本の在り様が問い直されている今、歴史的先進国に一筋の光をかいまみた様な気がする。